旅籠屋日記

(創業者の独り言)

 

「旅籠屋日記」は、会社の公式見解ではなく、当社の創業者である 甲斐 真の 創業当時からの日々の思いをつづった 個人的な日記あるいは随想です。

したがって、書き込みの内容についての責任は会社ではなく、個人に帰します。
ただし、その信条や個性が「旅籠屋」という事業を生み出し牽引してきた 重要かつ不可欠な要素であると考え、 あえて「旅籠屋日記」という名称を用い「旅籠屋」のサイト内に置いています。
「旅籠屋」という会社やその事業が、 広く社会の中でどのような存在になることを目指してきたのか、 その理念とコンセプト、背景にある感性の源泉を汲み取っていただければ幸いです。  


  

旅籠屋日記

2025.10.09

株式会社 旅籠屋の英語表記名は、Hatagoya & Company です。
株主や取引き関係者を含め、夢や志を共有する仲間たちの会社でありたいという願いを込めていますが、こういう思いを実感している社員は少ないかもしれません。

創業以来のモットーは「シンプルで自由な、旅と暮らしをサポートする」です。しかし、もっとも重要なのは、これを「利益の最大化」や「社会の多数派の常識」や「形式的なコンプラ(法令遵守)」よりも上に置こうという意志や覚悟です。
モットーそのものは一見平凡ですが、その背後に隠れている意志や覚悟は非凡です。そこに「旅籠屋らしさ」の本質があることが伝わっているか確信が持てません。

そもそも何らかの目的を実現するためには、何かを犠牲にしたり諦めたりしなければなりません。日々は判断と取捨選択の連続であり、その際の優先順位の有り様こそが個性でありアイデンティティの源泉なのだと思います。個人においても法人においても。
これはビジネスの教科書で学べることではなく、もっと奥底にある何のために存在しているのか、何をしたいのかという情念から導かれるものです。
個人であれば、答えなど無くても生きていけます。しかし、創業者にとって会社は自分が意図して生み出したものですから、目的や理由を見失っても存在していけるというのは、情けなく悔しく無責任なことです。
私がなにより嫌いなのは、断片的で小手先でその場逃れの浅薄な意見です。いわく「儲けを増やさなきゃ企業じゃない」「他の会社はこうしている、世間の流れはこうだ」「法律がこうなっているから仕方ない」。
そんな了見だったら、日本初のMOTELチェーンなど誕生しなかったし、人口の少ない地方への店舗展開など実現させなかったし、リピーター6割、直接予約8割という結果も生まなかったに違いありません。 考えてみたら、これは生みの親である創業者のこだわりであって、後継者にとっては、企業が存続し拡大するのであれば何が問題なのか、ということになるのかもしれません。こうして意志や覚悟は忘れられ、DNAは途絶えていきます。魂を伝え、共有し、そういうHatagoya & Companyを後世に残したいと思うのですが、これは不可能なことなのでしょうか?

ところで、旅籠屋に制服というものは存在しません。ただ、コーポレートカラーである山吹色にロゴマークをプリントまたは刺繍したTシャツ、ポロシャツ、フリースがあり、全社員に支給しています。
スタッフであることをお客様に示す意味を伝えているので、店舗では多くの支配人が着用しているようですが本社で常用しているは私だけです。通勤中に恥ずかしいという気持ちがあるのか、個性を損ねると感じているのか、旅籠屋の一員であることを誇らしく思っていないのか、心の中を覗いてみたい気がします。

たまに見かけるとHatagoya & Companyの思いが通じているようで、とても嬉しく感じていることを、ここで告白しておきます。

2025.09.24

昨秋の株主総会で3年ぶりに復帰し、ちょうど1年が過ぎました。
先週開催の今年の総会は、拍子抜けするほど、平穏無事に終わりました。
年初から作業を進めていたホームページの全面更新も、先刻切り替え作業を終えました。表示速度も改善され、「旅籠屋らしい」情報発信を心がけていきたいと考えています。

どのように見えていたかはわかりませんが、命を削るような1年間でした。
20年近くもジョギングを続けていて、今も無理やりchocoZap通いを続けているのが良かったのだと思います。鉛のように重い気分を引きずって走りに行くけれど、終わった後は必ず心が軽くなるからです。
4年前にリタイアした後も悩ましいことが続き、期待に反して心穏やかな日々は訪れませんでした。自分ではどうしようもないので、ストレスは大きくなるばかり。
日本人は心配性の遺伝子を抱えている割合が高いとどこかで読んだことがありますが、間違いなく私はその一族です。問題がひとつ解決しても、すぐに次の心配事を探しているような自分がいます。この4~5年間背負ってきた重荷からようやく解放されたというのに、気持ちが晴れないことに驚いています。これではいけません。
経営者として最後の砦にならなければという責任を30年以上背負ってきましたが、後進に委ねる勇気と忍耐を身につけなければいけない時です。幸い、この1年でそうした社員の成長を感じることができているし、今がスタンスを変えるチャンスなのです。

長く暑かった夏がようやく終わり、急に秋らしくなってきました。
そんな秋空の下、昨日、1年半ぶりにバイクのライディングスクールに参加し、サーキットを走ってきました。朝早くから夜遅くまで400km以上走って疲れ果てましたが、充実した一日になりました。5月に突然エンストしてレッカー移動したバイクもバッテリー交換で調子を取り戻し、乗り手の私もまだ走りを楽しめる体力と気力を実感できて良い気分、少しずつ、またバイクで全国の「ファミリーロッジ旅籠屋」を巡りたいと思います。

とても苦手なことなのですが、これからは頑張って仕事のペースを落としていくことにします。

2025.08.13
「旅籠屋日記」を復活させましたが、4か月近く書き込みしないまま日が過ぎてしまいました。
前回が「母との別れ」だったので、悲しみに暮れていたのか、ということはなく、ただただ日々の仕事に追われ振り返る余裕がなかっただけです。

そんな中、6月末の決算日を迎え、昨日「決算速報」を会社案内・IR情報のページにアップしました。
詳しくはそちらを見ていただきたいのですが、かいつまんで紹介すると、売上高は微増で過去最高、客室稼働率も前年度プラス。
ただし、リネンサプライ費などの費用の値上げで経常利益は大幅減、1億円を超える特別損失の発生に苦しめられました。
しかし、なんとか最終損益は1.3億円以上の黒字となり、3期続いた債務超過からも抜け出すこともできました。

創業から30年、リーマンショックや東日本大震災など、さまざまな試練を乗り越えてきましたが、コロナ禍は予想もしなかったことで、一時は会社の存続が危ぶまれる危機でした。
また、店舗や従業員が増えるに連れて社内で相互不信が強まり、信じられないような係争事件が発生しました。特別損失はその傷跡です。
先例のないビジネスを起ち上げ、育てていくという意味で、当社は今でもベンチャー企業です。
時流に乗ることを避け、事業の拡大を優先せず、堅実に歩んできたつもりでしたが、やはりまだまだ未熟な会社であることを思い知らされました。

こんな状況では創業した意味がない、このままでは死んでも死にきれない、という悲痛な思いと覚悟で3年ぶりに復帰してきたのですが、
言いようのないストレスに押しつぶされそうな毎日で、逃げずごまかさず、ひとつひとつ体を張って解決を図る1年間でした。
思いが通じない、誤解される、一方的に批判されるというのは、何よりも苦しくつらいことです。
ようやく後ろ向きの問題に目途をつけられそうな状況に近づいてきましたが、より良い会社にしていくための課題は山積みです。

「優しい社長が会社をつぶす」というもっともらしい言葉をネットでよく見かけますが、私にはそんな演技も計算もできません。
「清潔であたたかい宿、清潔であたたかい職場」を作りたいという強い思いがあったから30年以上ぶれずに頑張って来れたし、これからもそのように生きて行くしかありません。
しかし、数日間は、黒字決算の結果をありがたく噛みしめさせてください。
2025.05.01
8日前の4 月 23 日、母が96 歳と 7 か月の生涯に幕をおろしました。
お悔やみの言葉を数多くいただきました。
個人的なことですが、お礼を兼ねて、葬儀でのご挨拶の一部を転記させていただきます。

昼頃、入院先の病院から連絡があり、すぐに駆け付けましたが、最期には間に合いませんでした。
ただ、午前中には看護師や医師と会話し、昼前には「食欲がないから」と昼食を断ったそうで、痛みも苦しみもなく穏やかに息を引き取ったようでございます。

簡単に母の一生を紹介させてください。
生まれは昭和 3 年の 8 月 。今年は昭和百年に当たるそうですから、ほぼ昭和を通して生きたことになります。
祖父は金沢の出身でしたが、当時の第五高等学校でドイツ語の教師をしており、母はその赴任地であった熊本で生まれ育ちました。
女学校に通っていた頃は戦争の真っ只中、授業のかわりに軍需工場で働かされる毎日だったと嘆いておりました。
住んでいた家も空襲で焼かれ、一時は大分に疎開していたようです。
じつは、私の父は高校での祖父の教え子であり、以前から面識があったようで、終戦後の昭和 24 年にふたりは結婚いたしました。
その 3 年後に私が生まれたのですが、数年後から舅・姑との同居生活が始まりました。
まもなく舅は亡くなったのですが、姑とは相性がきわめて悪く、私は母の涙と嘆きのなかで育ちました。
大げさではなく、両親の笑顔を見た記憶はほとんどありません。

こうした生活は姑が亡くなるまで 20 年近く続きましたが、その後は生来の明るい性格を取り戻し、父とともにあちこち旅行に出かけたり、
男子バレーボールの応援に熱をあげたりしておりました。
その後、父が他界するまでの約 40 年間、大好きだった犬たちにも囲まれ、とても幸せな時期だったと思います。
ただ、不肖の息子であった私が心配をかけることが多く、申し訳なかったと思っております。
幸い、この 25 年ほどは、同じビルの上下に住んでおり、食事に行ったり、旅行に行ったり、毎月のように家族マージャンを楽しんだりと、
多少の親孝行はできたかな、と考えております。
この間、長きにわたり親しくしてお付き合いいただきました皆様、ほんとうにありがとうございました。

96 歳まで生きたのですから、大往生だと思います。
姑との苦労はありましたが、最愛の父と結ばれ人生をともに生き、多くの方とのご縁にも恵まれ、十分に幸せな人生だったと思います。
1 年ほど前に急に体調を崩し、施設に入所し、病院への入退院を繰り返しておりましたが、ちょうど私も仕事に戻って心身ともに余裕がなく、
なかなか面会や見舞いに行けなかったことが悔やまれます。
以前「もうこれ以上生きていても仕方がない」と言われた時「そんなことはない、お母さんが生きているだけで守られている気がする」
と返したらとても喜んでおりました。

とうとう両親ともいなくなり、もう話すこともできないのだと思うと寂しさと虚しさがこみ上げてきます。
病床で遺書かわりに記した紙には、最後に書き加えたのでしょう、こうありました。
一生懸命、生きました。

産んでくれて、育ててくれて、守ってくれて、ありがとう。
忘れません。
2025.04.14
「最後の日記」をアップしてから、3年7か月が過ぎました。
さまざまなことがあり、必ずしも本意ではなかったのですが、昨年の9月、3年ぶりに旅籠屋に戻ってきました。 抱えきれない様々な思いを「旅籠屋日記」に書きたいと考えていたのですが、ホームページもすっかり変わってしまい、アップする方法を見つけるのに時間がかかったこともあって半年以上が過ぎてしまいました。

「いまさら創業者の独り言など、会社のホームページに載せるべきではない」という指摘もありましたが、それはそれです。
復帰するにあたり「清潔であたたかい宿、清潔であたたかい職場」にしたいと願いました。覚悟はしていたのですが想像していた以上の難題で、少し大げさに言えば余命を削るような毎日です。しかし、少しでも願いが叶うのであれば本望です。
過去の日記もアーカイブに再掲する予定です。ご笑覧いただければ幸いです。 もし、ご意見ご感想などがありましたら、「お問い合わせ」ページのフォームでお願いいたします。書きたいことは山ほどありますが、ボチボチいきます。

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